20世紀最大の芸術家と呼ばれるパブロ・ピカソ。
しかし、その作品は「よくわからないアート」の代表格と言えるでしょう。
「アートってよくわからないよね」というイメージを作り上げた張本人かもしれません。
そんなピカソですが、実は現代アートの礎を築いた超重要人物で、ある驚きの記録でギネス世界記録を持っていることを知っていましたか?
そしてあの「よくわからない絵」にも、実は天才的なプロセスがあったのです。
今回は「ピカソって何がすごいの?」という素朴な疑問にお答えするため、ピカソの作品を厳選し、じっくり丁寧に解説していきます。
このページを読めば、あなたは「ピカソという芸術家のすべて」を理解することができるでしょう。
さらに、後半ではピカソを例に「今この瞬間を生きる」というアートの思考法を解説しているので、ぜひ最後まで楽しんでください。
このページであなたが学べることをまとめると、
- ピカソの作品の特徴
- ピカソの生涯
- ピカソから学べるアートの思考法
の3つです。
それでは一緒に、ピカソのアートシーンを覗いていきましょう!
ピカソって何者なの?
出身:スペイン
出没年:1881年〜1973年
様式:キュビズム
活躍:絵画・彫刻・陶器
特徴:現代アートの礎を築いた20世紀最大の芸術家
代表作:《アヴィニョンの娘たち》《ゲルニカ》
ピカソは現代アートの礎を築いた20世紀最大の芸術家です。
その作品は絵画から彫刻、登記に至るまで様々で、珍しく経済的にも大成功して裕福な生活ができた芸術家でした。
裕福だったからこそ、経済の心配をすることなく芸術に100%集中できたのです。
その結果、僕らには理解できない領域までぶっ飛んじゃった、て感じです。
また、ピカソは作品の様式がよく変わることが特徴で、それぞれ「〇〇の時代」と呼ばれています。
今回は時代ごとの特徴を解説していくので、しっかりついてきてくださいね。
…と、その前に、
あの有名なピカソの本名が知りたい!
「ピカソって本名が長いって聞いたことあるんだけど本当なの?」
っていうお約束な話から始めたいと思います。
はい、めっちゃ長いです。
ピカソは自身のことを「パブロ・ピカソ」と名乗っていました。
しかし本名はもっと長く、ピカソ自身も覚えきれなかったようです。
「じゅげむ」かよ。
その本名がこちら。
パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ
もうパッと見た感じ円周率やん。
でもどうしてこんなに名前が長いのでしょう。
ピカソの本名は、親や親戚、洗礼名や聖人の名前が付け足された結果、このように名前が長くなったと言われています。
ピカソの出身地であるスペインのマラガでは、このように名付けるのが一般的だったのです。
次からは、ピカソの生涯を追いながら作品を解説していきますね。
ピカソは10代から天才だった
20世紀を代表する芸術家のパブロ・ピカソは、1881年10月25日にスペイン南部のマラガという港町に生まれました。
まだ画家としてデビューする前からピカソの画才は誰もが認めていたのです。
ピカソ自身、
- 「子供の頃、ラファエロのように描くことができた」
- 「子供の絵を描いたことがない」
と語っているように、若くして天才の片鱗を覗かせていたのです。
美術教師だった父親が見ても驚くほどのスピードで基礎的な絵の技術を身につけていきます。
そして10歳でラ・コルーニャの美術学校へ入学し、14歳で公式に画家デビューを果たしますのです。
14歳で描いた《初聖体拝領》
出典:ピカソ美術館
そしてこちらの《初聖体拝領》という絵画が、バルセロナ美術工芸展に出品されたピカソのデビュー作です。
この時ピカソはまだ14歳でした。
日本で考えるとまだ中学2年生です。
その後、官立美術教育の最高峰であるサン・フェルナンド美術アカデミーで、入学試験で与えられた課題を1日で仕上げてしまったという話もあるほど、ピカソの画才はずば抜けたものでした。
16歳で描いた《科学と慈愛》
出典:ピカソ美術館
この《科学と慈愛》という作品はピカソが16歳の頃の作品です。
父ホセの指導により、社会派的なテーマをアカデミックに描いています。
高校1年生の年齢でこの絵を描いていると考えると、やはり天才と呼びたくなりますよね。
《科学と慈愛》は今にも死にそうな患者の脈をとるしかできない現代医学と、子供を抱えた修道院の女性が描かれています。
これは現代医学と、修道女が象徴するキリスト教の慈愛の精神を対置しているのです。
ちなみにこの医者は父親のホセがモデルになっています。
ピカソは「青の時代」で社会的弱者を描いた
「青の時代」は比較的有名なピカソの初期の芸術様式です。
あなたも「青の時代」という名前は聞いたことがあるかもしれません。
ピカソは1900年の10月にパリに訪れます。
そこでゴッホ、ゴーギャン、ゴヤ、ロートレックなどの作品を研究しながら、様々な芸術様式を吸収していきました。
そして「青の時代」と呼ばれる芸術様式が始まるのです。
「青の時代」はその名の通り、ブルーを基調にした画風が特徴的です。
主題としては、物乞いや売春婦など、当時の社会的地位の低かった貧しき弱者たちが感傷的に描かれています。
ピカソがまだまだ貧しかった自身の姿を重ね合わせていたのでしょう。
しかし同時に、そんな人生の絶望の中でも失われることのない美学や尊厳を描き出しているのです。
「青の時代」の片鱗は実は以前の作品からありました。
そして「青の時代」を決定的に加速させた事件があったのです。
それがカジェマスという友人の自殺です。
カジェマスの自殺をきっかけに、ピカソは自身の作品を(そして貧困と絶望を)青色に染め上げていったのです。
不条理にまみれた社会の外の存在を描いた《アルルカン》
出典:メトロポリタン美術館
アルルカンとはフランス語で道化師という意味です。
道化の歴史は古く、古代ギリシアの時代まで遡ります。
道化は昔からトリックスターとしての機能を持っています。
トリックスターは、よくいたずら好きとして描かれることが多い存在です。
そして、
- 善と悪
- 破壊と生産
- 賢者と愚者
など、異なる二面性を持つのが特徴です。
トリックスターは一般的な社会構造の外から、社会の矛盾などを指摘し、社会をかき回して(時には混乱させて)社会を活性化させる役割を担っています。
社会の不条理に着目した「青の時代」のピカソは、貧困に苦しみ続ける日常や、本来の意味を失い、なんとなく形だけが残っているような道徳を、平気で笑い飛ばすアルルカンに魅了されたのでしょう。
青の時代の集大成でありピカソの人生観が詰まった《人生》
出典:クリーヴランド美術館
この《人生》という絵画は青の時代の代表作です。
男女が寄り添い、その向かい側には赤子を抱く女性が配置されています。
これは男女の性愛と母子愛を対比させたと考えられます。
そして男女と母子の間、後ろには苦悩に満ちた人物たちが描かれたキャンバスが立てかけられていますね。
どうやらこの絵の舞台は画家のアトリエのようです。
間の空間に立てかけられた下の絵はゴッホの《悲しみ》によく似ています。
フィンセント・ファン・ゴッホ。 あなたも一度は耳にしたことがある名だと思います。 ゴッホの人生は映画化されるほど狂気に満ちたものでした。 しかしあなたはゴッホの魅力を語れますか? そう、ゴッホは知名度に比べて[…]
でもどうしてゴッホの《悲しみ》が描かれているのでしょうか?
もう少し考察を続けてみましょう。
寄り添う男女の男は、当初ピカソの自画像でした。
しかし完成した時には友人だったカジェマスに描き換えられています。
そう、《人生》で描かれているカップルは、カジェマスとその恋人なのです。
カジェマスは性的に不能だったとされていて、そのことが直接の原因かは定かではありませんが、2人は破局してしまいます。
カジェマスは母子を見つめ、女性は悲しげに俯いています。
失恋したカジェマスは精神が不安定になり、最終的には自殺してしまいます。
友人を救ってやれなかったピカソは後悔し、その経験が「青の時代」を加速させたのでした。
《人生》に友人のカジェマスを描いたことから、彼の自殺がピカソにとっていかに衝撃的だったかがうかがえます。
なにせカジェマスの死が「青の時代」のきっかけなのですから。
そう考えると、男女の愛や母子愛などを描きつつ、その愛の裏には悲しみや苦悩があることを表現していることが読み取れますね。
だからこそ2つの愛の間にゴッホの《悲しみ》を置いたのでしょう。
母子像はこの時期によく描かれたモティーフで、男女の性愛と画家のアトリエは生涯を通して描かれた主題です。
絵のタイトル通り、ピカソの人生観が凝縮された絵画だと言えるでしょう。
極貧生活に負けずに花開いたピカソの「バラ色の時代」
ピカソはフランスのモンマルトルにある「洗濯船」と呼ばれる建物にアトリエを構えます。
そこではジョルジュ・ブラックやモディリアーニといった多くの画家たちも暮らしていました。
若い芸術家は皆貧しいながらも、活気と才気に溢れていたのです。
この頃ピカソはフェルナンド・オリヴィエという女性と知り合い、6年間生活を共にすることになります。
そして「青の時代」で青一色に染め上げられたピカソの作品は、次第に色彩にあふれていきます。
悲観的な主題もいくらか明るさを増していきました。
ピカソの「バラ色の時代」が始まったのです。
《サルタンバンクの一家》
出典:ワシントン国立美術館
《サルタンバンクの一家》はバラ色の時代を代表する作品の1つです。
ピカソが生きた当時の時代は、現代のようにテレビや映画などありませんでした。
そんな当時の大衆娯楽として人気だったのがサーカスです。
ピカソも友人とモンマルトルにあるメドラノ・サーカスに頻繁に通っていました。
「バラ色の時代」は別名「サーカスの時代」と呼ばれるほど、アルルカンやピエロが多く描かれています。
この時期は、アルルカンや旅芸人など、一般的な社会の系の外へ押し出されたアルルカンたちに向けた感情を、あふれんばかりの色彩で描き出しているのです。
ちなみに画面左の男はピカソの自画像であるとされています。
キュビズムへの第一歩《ハーレム》
出典:クリーヴランド美術館
ピカソは1906年に一緒に暮らしていたフェルナンド・オリヴィエと一緒にピレネー山脈にあるゴゾルという小さな村でバカンスを過ごしました。
そして制作されたのがこの《ハーレム》という絵画です。
画面を見ると、色彩が土色ほぼ一色になり、空間表現が簡素になっています(後ろの線=壁の境界線)。
ピカソにとって、この時期は作品の意味内容よりも形態への探求に強い関心を持っていました。
描かれている人物も「特定の誰か」をお描いたというより、単なる記号として存在しているようにも見えますね。
これは、のちのキュビズムへの助走期間や準備期間と言えるでしょう。
これぞピカソ!「キュビズムの時代」
ピカソは徐々にコレクターに絵を売れるようになり、経済的に安定し始めました。
しかしそれで満足しなかったのがピカソです。
ピカソは貪欲に新たな表現方法を追求しました。
経済的な安定が手に入り、ピカソはより純粋に芸術の追求を推し進めることができたのです。
そしてピカソが見出した新たな道がキュビズムです。
キュビズムってなに?
キュビズムはピカソが牽引した芸術様式の名前です。
皆が想像する「よく分かんないピカソの絵」はこのキュビズム以降の作品ですね。
キュビズムとは、一度描く対象をバラバラに壊し、またそれを1つの画面上に再構築するという芸術様式です。
物事は幾何学的な断片として一度分解され、キャンバスの上で新たにその姿を構築されます。
なので○△□を寄せ集めたような独特の絵が出来上がるんですね。
キュビズムは一定の角度からは見えない死角の領域も同じ1つの画面に表現しようとした試みなのです。
キュビズムは、古くから使われる伝統的な遠近法を完全に丸無視し、キャンバスの平面に三次元を表現する新しい芸術様式でした。
「ピカソの絵って意味わかんなくね?」 あなたもそんなことを思ったことが一度や二度あるかもしれません。 一般的に想像されるピカソの作風は「キュビズム」と呼ばれる芸術様式です。 今回はそんな「キュビズム」について解説してい[…]
ここからはピカソのキュビズム作品を紹介していきます。
ピカソの代表作《アビニョンの娘たち》
出典:ニューヨーク近代美術館蔵
《アヴィニョンの娘たち》はピカソを代表する絵画です。
しかし最初から絶賛されたわけではなかったようです。
この絵を見た画家のブラックは、
「その絵はまるで誰かがガソリンを飲んで火を吐いているようなものだ」
と言いました。
また、画家のドランは、
「いつかこの大きな絵の背後で首を吊っているピカソを見つけるだろう」
と言ったのです。
むっちゃディスられてんじゃん。
このように《アヴィニョンの娘たち》は、初めから絶賛されていたわけではありません。
酷評の嵐ですが、キュビズムはこの絵から出発し、20世紀美術は《アヴィニョンの娘たち》を礎に幕をあけることになるのです。
《アヴィニョンの娘たち》は元々は前述の《ハーレム》の発展形として描かれるはずでした。
完成品は5人の女性だけですが、元々は5人の売春婦と、その客の水夫とが部屋にいて、そこに医学生が訪れるという物語風の設定で描かれる予定だったのです。
画面も今より少し横長の作品でした。
そしてピカソは元の絵で、学生に書物と頭蓋骨を持たせました。
これは虚栄心や快楽に溺れることに対しての「死の警告」を意味します。
《アヴィニョンの娘たち》は、いわゆるメメント・モリを意図した作品だったのです。
しかし!
完成作品を見てみると、死の警告を象徴するモチーフは姿を消し、人体は平面化され、三次元性を失っています。
これは時や場が設定された物語性を捨て、よりアイコンとしての正面性が強調されているからです。
ピカソは、感覚に訴える印象派とは違い、よりも知覚に訴える作品を作ろうとしたんですね。
「印象派って結局なんなの?」 もし友達にそう聞かれたら、あなたはどう答えますか? 印象派は世界中にファンがいる西洋の芸術運動であり、画家たちのグループの総称です。 日本でも大人気で、美術館で印象派展が開催される[…]
また、画中の登場人物全員が鑑賞者と対峙する構図は、ベラスケスの《ラス・メニーナス》を意識していると言われています。
ところで、ピカソの美的感覚はいったいどこからやってきたのでしょう。
一般的な美の感覚にはない、
- 歪んだり
- ズレたり
- 暴力的な色彩表現
で描かれた女性たちの描き方は、何が原点なのでしょうか?
実はピカソの美的感覚は、ピカソが偶然訪れた人類学博物館から着想を受けたものなのです。
左側の横を向いている女性はエジプト風に描かれており、右端の上下の2人はアフリカやオセアニアの彫刻に影響を受けています。
アフリカやオセアニアの彫刻に触れたピカソは、造形に対する追求が加速しました。
《アヴィニョンの娘たち》の右下の女性は身体は後ろを向いてますが、その革命的な造形の顔を見せつけるかのように、顔をグルッと無理やりこちらに向けていることがわかりますね。
《マ・ジョリ》
出典:ニューヨーク近代美術館
キュビズムは知覚に訴える芸術様式です。
1つの物体は見る角度を変えることで様々な形に見えます。
コップは横から見たら長方形だけど、上から見たら円になりますよね。
そのような知覚によって世界を捉え、その物体の持つ異なった形を1つの画面上に組み合わせて表現したのがキュビズムの作品なのです。
それは静物に限らず、人物を描くときも同じです。
この《マ・ジョリ》という絵画で注目したいのは、画面下にある「MA・JOLIE(マ・ジョリ)」という単語です。
これは当時流行歌だった曲の名前で「(わたしの)愛しい人」という意味があります。
このことからこの絵画は当時交際していた恋人エヴァに送られたものだと考えられています。
そう、実はこの作品は人物を描いた絵なのです。
いやどこがやねん。
と言いたくなる気持ちは分かるのですが、グッとこらえましょう。
相手はピカソですからね。
ピカソは人物を描く際も、一度人物像を分解して描きました。
ピカソの絵画を鑑賞するときは、
- ここが指かな?
- ここが顔かな?
- ここが肘かな?
みたいに探してみても面白いかもしれませんね。
古典へ回帰した「新古典主義の時代」
ピカソはキュビズムを牽引した存在です。
しかしピカソはキュビズムが単なる装飾や抽象になることを避けるために、新たな表現を模索していきました。
そしてちょうどその頃、音楽家エドガー・ヴァレーズを通して作家のジャン・コクトーと知り合ったのです。
そして更にコクトーをきっかけに、ロシア・バレエ団と出会いました。
そうして
- 脚本:ジャン・コクトー
- 作曲:エリック・サティ
- 舞台装飾・衣装:ピカソ
というバレエ『パラード』が誕生したのです。
どんだけ豪華メンバーなんすか。
この頃ピカソのイタリア旅行も合間って、古典への回帰が膨らんでいきました。
次の時代は、古典的な技法で描くものもあればキュビズム的な作品も同時に制作した「新古典主義の時代」または「アングルの時代」とも呼ばれています。
《肘掛椅子に座るオルガ》
出典:ピカソ美術館
こちらの絵画は「新古典主義の時代」の特徴が最も分かりやすい絵画です。
モティーフを写実的に描き、陰影をつけて肉感を演出する伝統的な表現技法がされています。
しかし写真をモデルに描いているためか、平坦な印象が残りますね。
ちなみにこの絵画は背景が描かれることなく終わった未完の絵画なのです。
背景が地のままで終わっているのはそのためです。
《浜辺を駆ける2人の女》
出典:ピカソ美術館
この絵画はバレエ『青列車』の垂れ幕として使われました。
この絵の中には、2人の女性が海と空を背景に砂浜を走る様子が描かれています。
2人の女性の手足は太く、たくましさを強調されていますね。
しかし、背景が単純化されていることにより、女性に重さは感じられません。
むしろ女性の「動き」にフォーカスが当たり、ダイナミックな躍動感が強く印象に残るように作品がデザインされています。
《ゲルニカ》を生んだ「シュルレアリスムの時代」
この頃になると人体は極端に湾曲されたり、キュビズム的な多視点をより自由に組み立てていくようになっていきます。
描く対象物を「暴力的」とも言えるほど破壊するのが特徴です。
このような表現の背景には、当時の社会情勢やピカソ自身の危機がありました。
1929年に起きた世界恐慌により、失業者が増え、治安も悪くなっていきます。
ピカソも恋人のオルガと別れたりして、絵を描けない時期があったりと、ピカソにとっても世界にとっても苦しい時期だったのです。
そしてピカソは、その苦しい時期にため込んだ情熱を《ゲルニカ》という絵画に全て注いだのです。
また、シュルレアリストとの交流はピカソの作品における「内なる精神の表現」に影響を与えました。
しかしシュルレアリストが無意識を意図したのに対し、ピカソは知覚を意図した作品に進んでいたので、次第に距離が生まれていきます。
ピカソもう1つの代表作《ゲルニカ》
《ゲルニカ》は《アビニョンの娘たち》に並ぶピカソの代表作と言える絵画です。
1937年にパリ万博のスペイン共和国パビリオンの一階に設置されました。
《ゲルニカ》は1937年の4月26日、スペイン北部バスク地方にあるゲルニカという小都市に対する無差別爆撃が主題になっている絵画です。
しかしピカソは画面の中に爆撃をイメージさせるような具体的なモチーフは描いていません。
《ゲルニカ》に描かれているのは、苦しみながらもがき、パニックになっている人や馬や牡牛です。
「これらが象徴するのは何か」という議論は古今東西あらゆる話がされてきましたが、大事なのは何が何を象徴しているかではありません。
《ゲルニカ》の魅力というのは、様々な解釈を許容していて、見る人にあらゆる可能性を提示していることです。
モチーフに対して1つの意味に限定するべきではないのです。
ピカソも《ゲルニカ》の人物・動物たちに特別な意味はないと言っています。
「牡牛は牡牛、馬は馬だ。
鑑賞者は結局、見たいように見ればいいのだ」ーパブロ・ピカソ
《ゲルニカ》はもともと万博に設置された絵画ですが、万博が終わった後はヨーロッパを巡りました。
その展覧会で得た資金は、共和国政府を支持して難民となったスペイン人の救済に当てられたのです。
その後「スペインに真に民主的な体制が樹立されるまで」という条件のもとニューヨークの近代美術館に委託されます。
そしてピカソ生誕100周年記念である1981年にスペインのプラド美術館に帰ってきたのでした。
《ゲルニカ》には、ファシズムに対抗するための武器、反戦のシンボル、民主主義の象徴と今まで様々な意味づけがされてきました。
製作されてから70年以上がたった今でも、その影響力は失われることはありません。
《泣く女》
出典:ロンドンテートギャラリー
《泣く女》はもともと《ゲルニカ》の23点の習作(練習のために作った作品)として作られた作品です。
その後1つの主題として独立していきました。
ピカソは様々な連作を繰り返し、たくさんの泣き顔をキャンバスに切り取ってきました。
その画面上の強いコントラストから、ファシズムが徐々に脅威を増していき、社会全体が第二次世界大戦に向かっていく緊張感が伝わってくるようです。
またピカソの私生活から生まれる葛藤や悩みを読み取ることもできますね。
ピカソが伝説となった「戦後の時代」
ピカソは晩年には、世界的な名声を手に入れていました。
しかしきらびやかな世界とは裏腹に、ピカソ自身は前線から距離を置くようになります。
南仏で静かに家族や友人たちと暮らしながら、精力的に作品制作を続けました。
そして1973年4月8日に、その91年の生涯に幕を下ろし、歴史にその名を刻む伝説となったのです。
ピカソの作品数はギネス級!?
ピカソの死後、その莫大な遺産により遺産相続の問題が勃発しました。
以下がピカソの膨大な量の作品をリストにしたものです。
- 油彩:1885点
- 素描:7089点
- 彫刻:1228点
- リトグラフ:6112点
- 陶器:2800点
- 版画:18095点
- ポスター:3181点
- 画帖(素描や習作など):149点
- タピスリー:8点
- 壁掛け:11点
いや作品多すぎじゃね?
ピカソはその作品の多さは異常で、「最も多作な美術家」としてギネス記録を持っているほどでした。
この膨大な量のピカソの作品たちは、それぞれ法定相続人の間で公平にくじ引きで分配されました。
名作を題材にした連作シリーズ
ピカソは第二次世界大戦後に美術史上の名作を主題にした作品を描きました。
《アヴィニョン娘たち》でも意識されていたベラスケス《ラスメニーナス》
出典:ピカソ美術館
ピカソと同じスペイン出身の偉大な画家ベラスケス。
その代表作でもあり、王女をあやす女官たちを描いたのが《ラス・メニーナス》という絵画です。
ピカソが描いた《ラス・メニーナス》ではベラスケスの絶妙な空気遠近法や繊細な色彩表現は姿を消し、
あくまでも知覚によって捉えた世界をピカソが見つめていたことを思い出させてくれます。
印象派の起源、マネの《草上の昼食》
出典:ピカソ美術館
印象派の父と呼ばれるエドゥアール・マネが描いた《草上の昼食》。
ピカソが描いた《草上の昼食》では、木々や芝の繊細な表現は簡略化され、ここでも人物にフォーカスが当たっています。
日本でピカソが観れる美術館
「ピカソの作品が見れる美術館って日本にないの!?」
というあなたに朗報です。
日本でもピカソの作品を鑑賞できる美術館はあります。
あれだけ作品数が多いので、ピカソの作品は世界中に散らばっていますからね。
日本でピカソの作品が見れるのは、ざっくりとこれだけあります。
- 箱根彫刻の森美術館
- 国立西洋美術館
- 笠間日動美術館
- 宮崎県立美術館
- 横浜美術館
- 京都国立近代美術館
- 長崎県美術館
- 大原美術館
- 埼玉県立近代美術館
- 和歌山県立近代美術館
ぜひあなたも20世紀最大の芸術家であるピカソを体験してみてはいかがでしょう?
まとめ
ピカソは芸術様式がよく変わり、それぞれ「〇〇の時代」と呼ばれる。
「青の時代」ではブルーを基調とし、社会的地位の低い人々を感傷的に描いた。
「バラ色の時代」では色彩が溢れ、悲観的な主題もいくらか明るさを増す。
「キュビズムの時代」は知覚に訴え、対象を一度分解し、再構築して描くようになる。
「新古典主義の時代」はロシア・バレエ団と出会い、古典的な技法での作品も制作した(「アングルの時代」とも呼ぶ)。
「シュルレアリスムの時代」では、シュルレアリストたちと出会い、キュビズムがより暴力的に強化され、内なる精神の表現に影響を受けた。
戦後は美術史上の名作を主題とした連作を描いた。
ピカソの死後、膨大な作品が残され、相続問題が起こった。
ピカソに学ぶアートの思考法
「でも僕らの人生にピカソがどう役に立つのさ?」
…と、あなたは思うかもしれません。
一体ピカソは現代の僕らにどんなヒントを教えてくれるのでしょうか?
それは「今この瞬間を生きる」ことの本当の意味です。
現代でも「今を全力で生きよう!」と言ってる人はたくさんいますよね。
しかし、
- 「ピカソと何の関係があんの?」
- 「それって今さら改めて言うほどのことなん?」
…と、思ったんじゃないですか?
しかし「今この瞬間を全力で生きる」ことの本当の意味をあなたは知っているでしょうか?
実際、あなたは今この瞬間を生きるということを、
「今の自分の気持ちを大切に生きる」
程度で理解していませんか?
確かに自分の気持ちを大切に生きることは重要です。
でもそれだけでは、
- 「今はやりたくないしいいや」
- 「(本当に自分にとって大事なことがあるのに)今は気分乗らないから…」
…というように、やらない理由を優先してしまうこともあるはずです。
人間の脳は「面倒臭いことはしたくない」とプラグラミングされているので、時に自分にとって本当に大事なことを遠ざけてしまうことがあります。
本当はダイエットがしたいのに、
- 「昨日頑張ったから今日はいいか…ケーキ食べたいし今の自分の気持ち大事にしなきゃね♪」
…と、自分の気持ちを大切にした結果、本来の目的を見失っては意味がありませんよね。
「今の自分の気持ちを大切にする」は「わがまま」になりかねないのです。
じゃあ「今この瞬間を全力で生きる」ってどういうことなのか?
それは常に自分の理想を目指すということです。
「理想」とは「自分の美学を体現した状態」のことだと思ってください。
あなたが人生において最も大事にしている美学を体現した状態を、常に追求することが「今この瞬間を全力で生きる」ということなのです。
先ほどのダイエットの例で言うなら、
- 「ケーキが食べたいけど、理想の自分になるために我慢しよう」
- 「ケーキを食べる代わりに、その分運動しよう」
…と、自分の理想を常に追い求めることを「今この瞬間を全力で生きる」と言うのです。
注目したいのは「今この瞬間」と言いつつも、目線は常に未来を見つめているという点です。
「でもそれって[将来のために…]って感じで、逆に今を大切にできてない気がするんだけど…」
それは「自分の理想」が変わらない前提で考えているからです。
あなたにとっての「理想の状態」は、今のまま一生変わらないものでしょうか?
考えてみてください。
子供の頃の夢と、今のあなたの夢は必ずしも同じではないはずです。
それはつまり、成長するにつれて「自分の理想の状態」が常に変化し続けてきたということ。
人(というか生き物すべて)は常に変化します。
環境にうまく適応できなかった生き物は絶滅し、適応するために変化して生き物は進化し続けました。
成長があれば、そこには変化が存在するのです。
「でもさ、「理想の状態」がフラフラ変わっちゃってもいいのかな〜。」
と少し不安になったあなた、大丈夫です。
「常に今この瞬間を全力で生きること」を正しく理解できたら、そんな不安はなくなりますから。
もしかしたらあなたは
「目標がコロコロ変わるより、1つの目標に向かってる方が良いんじゃない?」
…と、感じるかもしれません。
しかし、本当にそうでしょうか?
こう考えてみましょう。
目標を1つに絞るということは、他の可能性を捨てるということ。
その目標が本当に自分の美学を体現できる目標なのであれば問題ありませんが、なかなかそううまくはいかないのが普通でしょう。
先ほども言ったように、理想の状態は常に変わり続けるものです。
それはあなたが成長している証拠なのですから。
大切なのは、目標を1つに決めることではなく、常に「今の目標(理想)」を全力で追い求める姿勢なのです。
理想は変わっても、理想を目指す姿勢は常に持つべきです。
今日の理想と明日の理想は違っていても問題ありません。
ただ、その理想を目指す姿勢を忘れなければ良いのです。
ピカソがなぜあれほど芸術様式が変わったのか、今のあなたなら理解できるはずです。
ピカソは「青の時代」と「キュビズムの時代」とでは、目指している理想が違います。
時代ごとに表現したいもの(目指す理想)が違うのです。
しかし、ピカソは常に「今この瞬間の理想」を全力で表現しました。
だからこそ、あれだけ芸術様式が変化していったのです。
それは今この瞬間を全力で生きた証なのです。
「今この瞬間を全力で生きる」とは、「全力で自分を生きる」ということ。
「将来何が起こるかわからないから…」
…と、まだ何も起きていない「何か」のために備えているその時間は、一体誰のための人生なのでしょう。
その「空白の時間」のために生き、結局その「何か」が起こらずに人生を終えるとしたら…?
それは自分の人生を生きたと言えるでしょうか?
未来は「まだ起きていない」という意味では、存在していないのと同じです。
仮に未来があるとしたら、それは「今この瞬間の積み重ね」でしかありません。
自分には過去も未来もない。
ただ現在に生きようが為に
絵を描くのである。ーパブロ・ピカソ
あなたの「今この瞬間の積み重ね」があなたの未来を作るのです。
未来とは「今」の連続によってしか生まれないのですから。
今この瞬間を全力で生きていない人が、未来を全力で生きているでしょうか?
僕は無理だと思います。
未来は今この瞬間の積み重ねでできているのですから。
子供の頃は誰だって、今この瞬間を全力で生きていたはずです。
そこに過去も未来もありませんでした。
あなたの人生に、過去も未来もありません。
あるのはただ今この瞬間のみです。
だったらあの頃のように、ただひたすらに、今この瞬間に掲げている理想に向かって全力で走ってみませんか?
最後にピカソの言葉で終わりたいと思います。
子供は誰でも芸術家だ。
問題は、大人になっても芸術家でいられるかどうかだ。ーパブロ・ピカソ
ではでは。