《最後の晩餐》はレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた唯一の壁画で、時代を超えて愛されてきた名画です。
今回はそんな《最後の晩餐》の鑑賞ポイントをじっくり解説していきます。
もしあなたの友人が、
- 《最後の晩餐》って何がそんなにスゴイの?
- そもそも《最後の晩餐》の意味ってなに?
- てか、よく聞くユダって誰よ?
…と、あなたに聞いてきたら答えられますか?
もし答えられなくても安心してください。
このページを最後まで読めば、
「やっぱレオナルド・ダ・ヴィンチって天才だわ…」
…と、腰を抜かすことになるでしょう。
また、後半では《最後の晩餐》に学ぶ現代の情報発信者に必須のアートの思考法について話しています。
キーワードは「自律」「美学」「技術」です。
マジでここでしか聞けない話なのでお楽しみに。(超おすすめですよ)
明日からあなたが友人に囲まれながら《最後の晩餐》について解説する姿が目に浮かんできます。
これでアート通ぶれるぜ。
最後の晩餐の意味とは?
あなたは《最後の晩餐》がどんな場面を描いているか知っていますか?
最後の晩餐とは、キリスト教の新約聖書に描かれる一場面のことです。
イエス・キリストが十字架に磔になるのは有名ですよね。
最後の晩餐はそのイエスが磔にされる前に12人の弟子たちと晩餐(会合などの改まった夕食)をする場面なのです。
この晩餐の後にイエスは磔になり、一度死んでしまいます。
だから「”最後の”晩餐」なんですね。
(まあ、イエスは死んだ3日後に復活するんですけどね)
しかしただイエスが弟子たちと夕食を食べている退屈な場面というわけではありません。
実は最後の晩餐はイエスが「この中に私を裏切った者がいる」と弟子たちに告げる衝撃の場面を描いたものなのです。
ミステリードラマだと一番盛り上がるシーンです。
確実にこの後CMが挟まるやつです。
ユダって何者?
では《最後の晩餐》で告発された裏切り者は誰なのでしょう?
その人物がユダです。
ユダはイエスのことをお金で売った裏切り者の弟子なのです。
ユダ、お前最低だな。
ユダはイエスを敵視していたユダヤの祭司長たちに、銀貨30枚でイエスを売り渡す手はずを整えていました。
イエスの居場所を教えて、ユダヤの祭司長たちがイエスを逮捕するための手伝いをしてしまったのです。
そしてその決行日がまさに最後の晩餐の日でした。
《最後の晩餐》の鑑賞ポイント
《最後の晩餐》がどんな場面を描いた壁画なのかは理解できましたね。
次は《最後の晩餐》が美術的な鑑賞ポイントを解説していきます。
《最後の晩餐》を鑑賞するときに重要な人物を2人紹介します。
それがヨハネとユダです。
ユダは先ほど説明した通りです。
そしてヨハネもイエス・キリストの弟子の1人になります。
《最後の晩餐》におけるユダとヨハネはどのような意味を持っているのでしょうか?
これから解説していくので、しっかりついてきてくださいね。
《最後の晩餐》のユダとヨハネの描き方
さて、ここから《最後の晩餐》の鑑賞ポイントを具体的に解説していきます。
まず前提として、レオナルド・ダ・ヴィンチが活躍した時代がルネサンス期だったことを理解しておきましょう。ルネサンス期の作品は構図をシンメトリー(左右対称)にしたり、全体的にどっしりと安定した構図などが特徴的です。またこの頃、透視図法による遠近法が発明され、科学的に空間構成を描くという特徴もありました。
つまり遠近法による正しい空間表現と、画面の中にシンメトリーに配された均整のとれた統一性のある構図が美しいと考えられていたのです。
このルネサンスの美的基準は絵画などに収まらず、建築などあらゆる芸術に見られる特徴です。
そんな美的基準のもと《最後の晩餐》という主題も伝統的に多くの画家から描かれてきました。
しかし、なぜレオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》がこんなにも有名になったのでしょう?
もちろんレオナルド・ダ・ヴィンチというネームバリューも影響しています。
しかしそれだけではありません。
ということで、他の画家が描いた《最後の晩餐》と、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた《最後の晩餐》を比較しながら鑑賞してみましょう。
そしてこちらがドミニコ・ギルランダイオという画家の描いた最後の晩餐です。
1人だけテーブルの手前にいるのが裏切り者のユダです。
そしてその左奥に座っているのがイエス・キリストですね。
もう1人、イエスとユダの間でイエスの腕に寄り添っているのがヨハネです。
(画像を拡大して確認してみてください)
本来《最後の晩餐》を描くとしたらこのような構図が一般的でした。
ヨハネがイエスに寄り添い、ユダだけがテーブルの手前に仲間はずれになっているという構図です。
これはヨハネが、
- 「かわいそうなイエス様…」
- 「その裏切り者は誰ですか」
…とイエスに寄り添うという場面が聖書に描かれているためです。
イエスに寄りかかるようなポーズは、「この人物はヨハネである」という説明でもあるのです。
そして目立つのはやはりユダですよね。
これはユダだけをテーブルの手前にわざと仲間はずれにすることで、「この人物が裏切り者だ!」という説明になっているのです。
絵画にはこのように配置やポーズによるキャラクターの説明が密かに隠されています。
漫画『ワンピース』で「腕が伸びたらルフィ」「刀を3本持っていたらゾロ」「蹴り技で戦っていたらサンジ」みたいな感じです。
《最後の晩餐》にも「イエスに寄りかかっているからヨハネ」という説明があるのです。
ここで当時の一般的な《最後の晩餐》におけるユダとヨハネの読み取り方をまとめておきます。
1人だけ仲間はずれ → ユダ
と覚えておいてください。
これが当時一般的とされていた最後の晩餐の構図です。
レオナルド・ダ・ヴィンチが見抜いた《最後の晩餐》の2つの欠点
ここまでレオナルド・ダ・ヴィンチ以前の一般的な《最後の晩餐》の構図について話してきました。
しかしレオナルド・ダ・ヴィンチにとってこの構図には2つの問題点があったのです。
それが
- イエス・キリストを中心とした完璧なシンメトリーが作れない
- 不自然なユダの位置
という2つです。
この2つの問題を詳しく説明します。
1. イエス・キリストを中心とした完璧なシンメトリーが作れない
これはヨハネのせいです。
ヨハネがイエスに寄り添うことで、イエスを中心に弟子たちを綺麗に左右に分けることができず、完璧なシンメトリー(左右対象)が作れないのです。
ルネサンスの美的基準からみればシンメトリーが崩れるのは好ましくありません。
上の画像からもわかるように、ヨハネがイエスに寄りかかることで、画面左の空間(赤い領域)の方が少し広くなってしまっています。
これは弟子たちの間の距離が均等にならないためです。
この時点でイエスは中心からズレてしまうのです。
もしこの状態でイエスの位置を中心にすると、左右の空間に差ができてしまい、画面がシンメトリーになりません。
2. 不自然なユダの位置
もう一度ユダの位置を確認してみましょう。
この構図を見てレオナルド・ダ・ヴィンチは思ったのです。
「今この瞬間にイエスによって裏切り者がいることが告げられるのに、すでにユダが仲間はずれになっているのはおかしい…」
…と。
確かにその通りです。
晩餐会が始まるまでは、ユダが裏切り者だとは誰も知らなかったはずなのに、ユダがすでにテーブルの手前に仲間はずれになっているのは話の辻褄が合いません。
ユダというキャラクターの説明のためでも、完璧主義だったレオナルド・ダ・ヴィンチはこの構図に納得できなかったのです。
このような、
- イエス・キリストを中心とした完璧なシンメトリーが作れない
- 不自然なユダの位置
という2つの問題点を解決したのがレオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》です。
一体どうやって解決したのでしょう。
次に世界的名画のタネ明かしをしていきます。
レオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》の特徴
ここからレオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》の特徴を詳しく解説していきます。
レオナルド・ダ・ヴィンチがユダとヨハネをどう描いたのかという謎も紐解いていくので楽しみにしていてください。
鑑賞ポイントを2つにまとめてみました。
それが、
- 構図
- 主題の描き方
です。
この2つのポイントにユダとヨハネを当てはめることができます。
つまり、
主題の描き方 → ユダの描き方
で解決したのです。
1つずつ解説していきます。
レオナルド・ダ・ヴィンチの構図「ヨハネの描き方編」
レオナルド・ダ・ヴィンチは《最後の晩餐》において、計算され尽くした構図を作っています。
その構図には2つの特徴があります。
それが、
- 完璧なシンメトリー
- 完璧な空間表現
です。
1. 完璧なシンメトリー
「シンメトリーな構図はヨハネのせいで実現できなかったんじゃないの??」
…と、あなたは思うかもしれません。
確かにそれまでの《最後の晩餐》ではシンメトリーな構図はヨハネによって叶いませんでした。
しかしレオナルド・ダ・ヴィンチはこの問題も解決することに成功しています。
では一体どのように解決したのでしょうか?
まずドミニコ・ギルランダイオの《最後の晩餐》とレオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》を改めて見比べてみましょう。
それまでの《最後の晩餐》では、イエスに寄りかかっている弟子がヨハネでした。
ではレオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》では、どの人物がヨハネなのでしょう。
結論から言うと、イエスの左側の人物がヨハネです。
「は?イエスに寄りかかってなくね?」
「さっきと言ってること違うやんけ」
「読者を裏切るなこのユダが」
…まあ、一回落ち着きましょう。
なぜこの人物がヨハネだと言えるのか?
ヨハネをよく観察すると、後ろから男性に何か耳打ちをされています。
この男性はイエスの一番弟子であるペテロです。
ペテロはヨハネに「一体どういうことだ!?裏切り者って誰なんだ!?」と耳打ちしているのです。
つまりヨハネはこの一瞬前までイエスに寄り添っていて、ペテロの耳打ちを聞くために体を起こし、イエスからペテロに体を傾けたのです。
レオナルド・ダ・ヴィンチはペテロの耳打ちを描き、ヨハネが今まさにイエスからペテロへと体を起こした一瞬の時間の経過を表現しました。
その表現によって鑑賞者にどの人物がヨハネであるかを説明しつつ、ヨハネをイエスから離すことに成功したのです。
レオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》はヨハネがイエスに寄りかかっていた一瞬後を描いています。
鑑賞者は体を起こす一瞬前の情景を想像することで、誰がヨハネかを理解できる仕掛けが隠されているのです。
その結果、イエスを中心に12人の弟子を6人ずつ左右に綺麗に分け、さらに3人ずつのグループにまとめることで均整のとれた安定した構図を実現しました。
こうしてレオナルド・ダ・ヴィンチはシンメトリーを崩していた「イエスに寄り添うヨハネ問題」を解決したのです。
2. 完璧な空間表現
《最後の晩餐》の構図において、もうひとつ重要なことが構図と主題の一致した天才的な構想です。
これはレオナルド・ダ・ヴィンチの計算された一点透視図法によって表現されています。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、この消失点に全ての直線が収束する一点透視図法の構図を利用しました。
《最後の晩餐》をこの一点透視図法で構成することで、奥行きのある印象に仕上げました。
さらに消失点の位置にイエスの顔を配置することで、鑑賞者が自然とイエスに注目するような構図になっているのです。
あなたも《最後の晩餐》を鑑賞するときに、自然とイエスに目がいきませんでしたか?
それはレオナルドが計算して仕掛けている視線誘導なのです。
ちなみにレオナルドはこの一点透視図法でもう1つの魔法を《最後の晩餐》にかけています。
そもそも《最後の晩餐》は教会の食堂の壁に描かれた壁画です。
そして壁画から最も離れた修道院長の席から見ると、一点透視図法により現実空間と絵画空間がぴったりと重なるように描かれています。
まるでイエスや12人の弟子たちと一緒に食事をしてるかのように見えるのです。
《最後の晩餐》は壁の高い位置に描かれている壁画ですが、テーブルの食事が見えているのはそのためです。
まさに構図と主題が一致したレオナルドの天才的な構想です。
マジで天才かよ。
さらにレオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》の特徴として、イエスと12人の弟子たちが「聖人」ではなく、人間として描かれているということです。
一般的にはイエスや12人の弟子たちは、「聖人」として頭の上に光の輪(光輪)が描かれます。
しかしレオナルド・ダ・ヴィンチはその光輪を描かず、よりリアルな人間的表現をしているのです。
その代わり、イエスの後方の壁に見える半円アーチの装飾が光輪的な役割を果たしています。
後ろの窓から差す光が後光的な役割を持っているため、光輪を描かなくともイエスの神々しさは失われていないのです。
さらにイエスのポーズを正三角形に収めることで、どっしりとして安定感のあるルネサンス的な構図にまとまっています。
これが現実空間とリンクするためにリアルな人間性を保ったままイエス・キリストの神々しさを表現したレオナルドの神業です。
マジでハンパないです(語彙力を失う)
レオナルド・ダ・ヴィンチの主題の描き方「ユダ編」
レオナルド・ダ・ヴィンチが工夫したのは構図だけではありません。
《最後の晩餐》という主題の描き方も全く新しいものに生まれ変わらせたのです。
それが、
- 人間の心理ドラマ
です。
ユダの配置から生まれる心理ドラマへの扉
もう一度レオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》とギルランダイオの《最後の晩餐》を見比べてみましょう。
レオナルドの《最後の晩餐》でユダはどこにいるかわかりますか?
実はユダもヒントを手繰り寄せていくことで、見つけ出すことができます。
ギルランダイオや他の画家が《最後の晩餐》を描く場合は、ユダだけがテーブルの手前に描かれていることが一般的です。
しかしレオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》ではテーブルの手前には誰もいません。
では、ユダは一体どこにいるのでしょう?
その謎は聖書を読み解いていくことで明らかになります。
新約聖書の中に「マタイの福音書」というものがありますが、その一節でイエスがこのようなことを言っているのです。
「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです」
ーマタイのよる福音書
つまり、イエスと同じ皿に手を伸ばしている人物が裏切り者(=ユダ)であることが読み取れますね。
それを踏まえて《最後の晩餐》を見てみると、ユダの姿が浮き上がってきます。
そう、その人物がユダです。
さらに右手にはイエスを売り渡した際に報酬として手に入れた銀貨が入っている小包を持っているのがわかりますね。
この「同じ皿に手を伸ばす」という記述により、ユダはイエスに近い位置で描かなければいけません。
しかし裏切り者のユダをイエスの隣に描くわけにはいかない。
だから今までのユダはテーブルを挟んだ反対側に描くしかなかったのです。
しかしレオナルド・ダ・ヴィンチは聖書の記述通りに描きつつ、あえてユダをイエスと同じ側に座らせました。
つまりレオナルド・ダ・ヴィンチは鑑賞者にユダを探させる表現をしたのです。
それは僕らを絵の中で「裏切り者は誰なんだ!」と慌てる弟子たちと同じような心境にさせるのです。
それまでの《最後の晩餐》は登場人物に表情はなく、ただ淡々と主題だけが描かれているだけでした。
それは《最後の晩餐》が飾られる場所が教会の食堂であることが多かったため、静かな印象の絵が求められたからです。
しかしレオナルド・ダ・ヴィンチはそれでは満足しませんでした。
レオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》の登場人物たちは、皆感情豊かな表情を見せ、身振り手振りも大きく描かれています。
今まさに「裏切り者は誰だ!」と慌てふためく瞬間の様子に、臨場感を感じることができるのです。
レオナルド・ダ・ヴィンチは静まり返って感情のなかった《最後の晩餐》という主題の既成概念を壊しました。
そこにザワッとした一瞬の慌てふためく人間の心理描写を描き出したのです。
宗教の力が強大だった時代に、科学を追求していたレオナルド・ダ・ヴィンチは、
ではなく、
を描いたのです。
そして鑑賞者にユダを探させることで、鑑賞者もその人間の心理ドラマに巻き込むような魔法がかけられています。
こんなにも「動き」のある、それでいて安定感のある《最後の晩餐》を描いたのはレオナルド・ダ・ヴィンチただ1人でした。
まとめ
《最後の晩餐》に学ぶアートの思考法
《最後の晩餐》はレオナルドが描いたものとその他でなにが違うのだろうか。
僕らがレオナルドの《最後の晩餐》に価値を感じるのはなぜなのか。
その違いが見えた時、僕らの情報発信ないしは人生に活かすことができます。
僕はレオナルドの《最後の晩餐》の価値について、こう考えています。
卓越した技術と、そこに「問い」があるかないか、だと。
レオナルドは神業的な技術で描いた《最後の晩餐》を通して、僕らに問いを投げかけているのです。
ではそれはどんな問いか?
それは「今君が信じているものは君を幸福にするか?」という問いです。
《最後の晩餐》が描かれた当時はキリスト教が絶大な力を持っていました。
皆、神を信じていれば幸福になれると信じていたのです。
しかしレオナルドは違いました。
皆が盲目的に信じている神(宗教)を疑ったのです。
レオナルドはイエス・キリストが死んでから1500年経っても神は再臨することなく、誰も苦しみから救われない世の中を知っていました。
そしてそんな世の中で教会だけが権力を高めている状況に疑問を持ったのです。
レオナルドは優れた芸術家だが、科学者としての一面もありました。
科学とはしばしば宗教と対立する関係にあります。
科学とは自らの手で未来を切り開くということ。
「自分を幸福にできるのは神ではなく、自分自身ではないか?」
レオナルドは自らの手で真理をつかもうとしたのです。
自分以外の存在に盲目的に依存してしまっては、自分を幸福にすることはできないと考えたのです。
神の時代によくこんな考えができたなと思います。
やっぱり天才なんですね。
かつて世界を震撼させたナチスにも同じことが言えます。
ナチスに加担していた人々は、自分たちは正しいと信じていたのです。
自分たちは幸福になれると。
しかし結果はあなたも知っている通りです。
なぜこうなったのでしょう?
なぜ人間は幸福になるために神信じていたのに教会だけが権力をつけた?
なぜナチスを盲信した?
それは自分に技術と美学がないからです。
技術がなければ技術がある人に頼らざるを得なくなります。
美学がなければ心の支えがなくなり不安になります。
不安な人々は誰かに守ってもらおうと考え、大衆として時代に飲まれることになります。
他者に守ってもらわないと、安心できないからです。
つまり自律できない人々は時代に飲み込まれてしまうということです。
自律とは自分自身に対する規範に従って行動することです。
そしてその自分自身に対する規範こそが、僕のよく言う美学だということです。
《最後の晩餐》は神の時代に向けた挑戦状なのです。
レオナルドは技術と美学を持って自律していたからこそ、神の時代に問いを投げつけることができました。
レオナルドには美学に基づいた「問い」がある、それを支える技術力がある。
だからこそレオナルドの《最後の晩餐》は人々の心に残るのです。
時代を超えて人々の心に残るアートが自転車だとすると、その自転車を支える前輪と後輪が技術と美学なのだと僕は考えています。
アートの語源を辿っていくと「技術」という意味が含まれているのです。
自転車の前輪と降臨、つまり技術と美学が備わって初めて、その自転車(作品)は時代という道を未来へ向けて進むことができます。
それは現代に生きる僕らにも言えることです。
情報発信とは、コンテンツにのせてあなたの美学を伝える行為なのです。
美学を正しく伝えるには確かな技術も重要です。
美学があっても技術がなければ誰にも届かない。
誰にも届かない美学は残念ながら存在しないことと同じと言えます。
いくら美味しいラーメンを作っていても、誰も店の存在を知らなければ意味がありません。
もう美味しいラーメンを作っていればお客さんがくる時代ではないのです。
店の場所をお客さんに知らせる方法も学ばなければいけません。
ラーメンは美学で、店の存在を知らせるためのマーケティングが技術です。
美学と技術の両輪が組み合わさって、初めてそのラーメン屋という自転車は前に進むことができます。
技術があっても、美学がなければその他大勢に埋もれるだけです。
きっとユダを机の手前に座らせ、ヨハネをイエスに寄り掛からせるでしょう。
美学がないコンテンツは誰かの二番煎じでしかありません。
僕らは現実的な技術を学びつつ、美学を追求することを忘れてはいけないのです。
広めるべきは美学で、コンテンツは美学を乗せる乗り物です。
依存することなく、美学で繋がった本当の仲間を集めることが、これからの時代では重要なのです。
確かに何かに依存する方が楽です。
しかし、本当に自分らしくクリエイティブに生きるには自律することが必要だと僕は思います。
そのために、美学と技術を磨いて自律していきましょう。
あなたの目の前に描かれているのは神か、それとも人間か。
今のあなたにはどう見えますか?
ではでは。